はとぶん

旅するゲームプロデューサーの妄想ブログ

"ク〇ゲー"という表現に物申す

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(今更ではございますが)ゼルダBoWやってます。
このシリーズに関しては、それこそ初代ディスクシステムの作品からプレイしているのだが、手を出しては途中放棄を繰り返している。(『風のタクト』など三頭身ルックのリンク(キッズ向けゼルダ?)以外はあまりエンディングを迎えた記憶がない)。
どの作品も途中までは程々に難しく、程々に頭を使い、程々に達成感が味わえて楽しいのだが、どこかで難易度の壁に負けて、正直言うと面倒くさくなって諦めてしまうのだ。

メディア的にも業界的にも異常に高い評価を受けているし、オープンワールドになって『新しいゼルダ』と謳われていることもあって、凝りもせずにまた手を出したわけ。そして(案の定)「そろそろ辞めよっかなー」フェーズに陥っている。

 

美しい世界、新鮮で好奇心がそそられるゲームデザイン、素直に「よく作ったなー」と感心させられるし世間的な評価に同調できる部分はいっぱいあるのだが、どこかで「失敗したときの繰り返し行動や待機時間」が「成功したときの達成感」を上回ってしまうのだ。

レベルデザインの問題でなく、ストレス回避の面で「もう少し弱者救済の方法があるのでは?」と感じてしまう(我々のようなおっさんプレイヤーは反射神経も鈍くなっているし、何よりも忍耐力が足りない…)。
事ある度に待たされたり、同じ崖を何度ものぼらされたりすると、心の中で「このク〇ゲーが!」と叫んでしまう。(もちろん自分のスキルが足らないのは重々承知の上)

 

(とまあ、この例からもわかる通り)
"ク〇ゲー"という表現には、作品の評価というより個人の感情的な側面を感じる。

 

某ゲームメディアの発信しているラジオで、たまにこの"ク〇ゲー"という単語を使っているのを耳にする(公式な評価として改まって使っているのではなく、キャスターの口癖でポロっと出てきちゃっている感じ)。
まあでも、評価で飯を食っている人間が、この単語を公の場で使うのは正直いただけない。

大袈裟だが、その作品が持つ全てのポテンシャルをその一言で奪う結果になりかねないし、その単語を気持ちよく受け取れるリスナーがいるとも到底思えない。なのでその単語を耳にするたびに「それってあえて言わなければいけないこと?」って疑問を感じてしまう。

 

「商品の評価を真摯に受けるのは、その商品でビジネスをする者のあるべき姿勢」という理屈を通すなら、その理屈はメディアにも通じるはず。リスナーマインドを意識するのであれば、やはり彼らも評価のコトバは慎重に選ぶべきだと思う。

プレイして番組で取り上げられること自体は開発に携わる者なら(低評価だろうと)素直にありがたいと感じるだろうし、やはり市場を盛り上げるという共通目的をい有しているのだからこそ、生産者・評価者・消費者の関係はWIN3でありたいものです。

 

ゲームに限らず映画や飲食店やあらゆる商品が評価を受けて、実際に自分も消費者評価で購買の意思決定をすることが多々ある。
商品やサービスによるのだが「〇〇〇な点に不満を感じないのであれば…」的な評論は結構参考になる。第三者の不満に対して、それを承知で購入するかどうかを判断しやすい。

要は欲求に対しての費用対価値の有無が知りたいわけで、過剰な誉め言葉や感情に走った悪評は、判断の上ではあまり参考にならないというのが正直な感想。

 

…もう少しハイラルをぶらついてみるかな…。好きなところから踏破するのがオープンワールドならではの遊び方なわけだし、それゆえに面倒なところも多々あるし、正直突き放しすぎじゃない?って思ったりもするのだけど、まあ不満を見つけることも勉強になるわけだし(とかポジティブに捉える)。