はとぶん

旅するゲームプロデューサーの妄想ブログ

無職中年人生の旅路 その④

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久しぶりの更新!何だかんだで忙しい日が続いているのだが、目の前にタスクが積まれているってのはある意味精神的に救われているってことに最近気付きました。 

 今回は人生哲学について語ってみる。 

 

こんな自由人でも職業を記載する機会がたまにあり、フリーランスという言葉に馴染めなく、“自営業”という言葉を使っている。 

(これは自分だけかもしれないが)何となく“自由業”よりも“自営業”の方が市民権を得ている響きを感じる。つまり「オレちゃんと働いているよ!」って世間様に伝えたいのだ。我ながら小並感。。。 

 

先月日本を離れて一月ほど東南アジアで生活しとりました。 

都市部での生活なのでさほど物資に不自由することもなく、すぐにライフスタイルを身につけることができたのだが、時間やお金の消費に対する価値観が多少なりとも変化していることに気付いた。 

 

(情報量が足りない所為もあるのだが…)向こうで暮らしていると、食・移動手段・可処分時間の使い方などあらゆる面で選択肢が少ない。というか選ぶのが面倒くさい。言語コミュニケーションの煩わしさや、メイドインジャパンのクオリテイと比較してしまうとどれを選んでも多少のストレスを感じてしまうこと、物価の低さなどを考えると、自ずと手に取りやすいものを最優先に選ぶ。 

 

自分はかなり高い水準の節約マインドを持っていると自負しているが、云十円云百円の節約に達成感を感じるよりも、その調査選択のストレスから解放されていることの方が嬉しい。 

 

時間に関してもかなり寛容になるというか、日本にいる時の様に色々なことを詰め込まなくなる。まあこれはどちらかというと諦めに近い感覚なのだが、「急いだところでどうにもならない」ことの方が多い。毎日酷い交通渋滞だし、就業時間を守る意識はかなり高いお国柄だし、夜23時にはあらゆるお店がクローズするし。その時間で対応可能なことを選択するのがベターという意識。 

 

ちなみに日本ではリアルタイムにテレビ番組を視聴することがほとんどないのだが、この国にいると何故かテレビをつけてしまう(日本の番組が受信できる環境に住んでいた)。 

別に見たい番組があるわけではない。テレビを見ながら何かをしているってわけでもない。ただ垂れ流して、ぼーっと眺めているだけの時間がほとんど。はっきり言って時間の無駄だし、大人になってからそんな時間の過ごし方をした記憶も全くないのだが、やはり外国で生活していると、日本の放送が(しかもリアルタイムに)見れることに何となく安心感を覚えるし、時間の無駄とは思いつつもそれに罪悪感は感じない。 

 

「何かしら充実していればその日は良い一日であり、そんな日が続けば人生は充実する!」そんな心境なのだ。 

 

まあそんな価値観も帰国すると瞬間的に消え失せ、常にマルチタスクでタスクをこなし可処分時間は何かしらインプットを行なっていないと不安に苛まれる日常を過ごしているわけだが、ひとつ気付いたことがある。 

「人生の価値観とか充実感の尺度って、基本的には生活環境が作り出すものなのね」 

どうしても「どっちが良い?」とか考えてしまうけど、実際に自分の身の置き方を変えてしまうと、ほんと価値観なんてガラリと変わってしまう。東南アジアでこれだけ意識変化があるのなら、インドとかアフリカとか行ったら「生きているだけで幸せ!」とかって気持ちになれるかも? 

 

自分の様な個人で生計をたてる立場では人から評価を受けて満足感を得ることができないので、自分の中で自分の選択・行動を正当化して、それをこなすことに充実感を得る必要がある。 

「どんな人生を過ごせば自分は死ぬときに幸せな人生だったと思えるのか?」こういう独りよがりな心の拠り所を見つけておくことで、実際のところかなり救われているのだと思う。要は気持ちの持ち様なのだ! 

 

じゃあ社会的な評価によって得られる満足感が無いのか?と問われると決してそんなこともなく、だからこそ職業欄に“自由業”ではなく“自営業”と書いてしまうワケ。でも最後に自分を評価するのは結局自分しかいないからね。客観的価値観と主観的なそれの間を行ったり来たりしてバランス取りするのが精神的安定に繋がっているのかなーと思う次第です。